卒業、入学式  松葉づえをついて・・・

小学校の卒業式までには、なんとか退院。

松葉づえを卒業式に出ることに。

当時は、それが恥ずかしくてたまりませんでした。

そして、すぐに中学校の入学式。

この時も半分ギブスをはめたまま、松葉づえでした。

小学校6年生のときの修学旅行は、風邪を引いて行けなかったし、

卒業式、入学式も松葉づえで。

自分は、本番に弱い!肝心な時にダメになると思うようになっていくのです。

結局、中学1年の体育は見学、その冬、足に入ったプレートを抜く手術。

プレートを抜いても足首の可動範囲は、骨折する前とは比べものにならないほど狭く、

走ることも遅くなり、ジャンプ力も落ち、すべての運動神経は悪くなっていました。

さらに、長期間の休んでいたので勉強もわからなくなり、

学校がいやになり、ふてくされていくのです。・・・つづく。

リハビリ  まったく足首が・・・

3か月後こんどはリハビリ。

これが想像以上に大変でした。

寝たきりだったので足を骨折したほうはもちろん、なんでもない足も細くなり、

片足で立つことすらできなくなっていました。

松葉づえを支える腕の力もなくなり、カラダは、動かさないと、

こんなふうになってしまうのか?と思ったものです。

一番悲惨だったのは、足首か全く動かないのです。

リハビリで足首の曲げ伸ばしが涙が出るほど痛く、

これが元のように足首が曲がるのだろうか?歩けるのだろうか?と。

リハビリの先生は、「リハビリすれば曲がるようになるよ!」

その言葉を信じて痛いのを我慢して続けるもなかなか動きません。

今考えれば確かに曲がるようになり、スポーツもすることができるように

なりましたが、その後25年間正座ができませんでした。

曲がるようになるよ!とは言われましたが、

骨折前の足首の可動範囲になるよ!とはリハビリの先生も言わなかったので

間違ったことは言ってなかったことに。

一度壊すと元のようにはならないということです。・・・壊さないことが大切!

便秘   寝たままで・・・

入院生活で一番困ったのは、便が出なくなったことです。

寝たきりのままだったので、小便は尿瓶(しびん)ですることは、すぐに慣れましたが、

大便は、オマルでするのでお尻を持ち上げてもなかなか踏ん張れず、

寝たままするというのは、赤ちゃんの時以来なので便が出てこないのです。

もうひとつ便秘になった理由があります。

食事の時になると出たくなるから困りものでした。

ひとり部屋でなく6人ぐらい?の相部屋だったので、

臭いが部屋にこもってしまい、他の人に迷惑をかけたくなかったからです。

とうとう便秘になり、苦しくなって今度は、浣腸!

オマルで便をするだけでも恥ずかしいのに、お尻を突き出し、

看護婦さんに浣腸をしてもらうときの恥ずかしさといったらもうたまりません。

しかし、人間環境適用力があるもので、3週間もすると、もう慣れたもので

寝たままでも簡単にすることができるようになるから不思議なものです。

高齢になってから寝たきりになると便秘になるというのは、

足腰を使わず、寝たままだとお腹に力が入らず、便秘なるのは、うなずけます。

便秘の人は、足腰を使い、お腹と腰、脚の筋肉を

落とさないようにすることが大切です。

 

床ずれ  我慢のない子供と・・・

手術が終わり、ギブスをつけられ入院生活が始まって1週間後のこと。

足が痛くて痛くて眠れない日々が続くのです。

栃木から付き添いで来てくれたおばあちゃんを困らせたのです。

丁度そのころ医院長がハワイに出かけていたため、看護婦さんに

足が痛い!と何度も訴えたので、

「この子は我慢が足りない子ね、痛いはずないじゃない!」

と見てもくれないのです。

ようやく医院長が帰ってきて、そのことを伝えると、

「すぐにギブスを開けて見ろ!」とその看護婦さんに言って開けてみたところ、

なんと!かかとが床ずれで腐っていたのです。

それを見て医院長は、「これは痛いだろう!なんと我慢強い子なんだ」と。

そして、我慢が足りないと言った看護婦さんも、「ほんとに我慢強い子!」と。

私は「足を動かさないように!」と看護婦さんに言われたので、

まっすぐにしたまま一度も動かさなかったわけです。

そのせいでかかとに血液が流れず、ズルむけに。

このときが、人間不信の始まりだったように思います。

また、このとき白衣の天使が白衣の悪魔に見えたのです。

権威ある人のいうことをあまり信じなくなったのは、

このときのことがあるからかもしれません。・・・自分の感覚を信じること!です。

初手術  足の骨にプレート?・・・

複雑骨折で手術をすることに。

プレートを入れビスで骨を止めるということ。

手術をすると聞いて、心配性で臆病な私は、これからどうなるのだろう?

と手術までの1週間不安と恐怖でたまりませんでした!

今なら、こんな時39半夏厚朴湯と15柴胡加竜骨牡蠣湯を飲むと思います。

そして、初めての手術、初めての全身麻酔を経験することに。

テレビで見ていた手術をまさか?自分がすることになるとは。

いざ手術のとき、思っても見ないことが・・・

看護婦さんが、なんと下の毛を剃ろうとするのです。

足首の手術なのになんで?

不安と恐怖どころか、今度は恥ずかしさで逃げ出したくなりました!

人間おもしろいもので、不安や恐怖に勝るものは、恥ずかしさかも?!

そんな恥ずかしさの中麻酔のマスクをかけられいつの間にか手術も無事終了。

このあと3か月の入院生活が始まりさらに、試練が待ちうけていたとは、

このときには知る由もありませんでした。・・・つづく

初挫折 自信になったはずの・・・

スキーを誰よりも早く始めたお蔭でスキーだけでなく野球、

走ること、泳ぐことが得意になり、ますます元気になっていく自分

に嬉しくなりました。

そのかいあって?内弁慶だった私が、

友達と遊んでばかりで成績は、どんどん落ちてしまうのです。

学校の授業も体育だけが好きでした!

しかし、小学校6年の冬休み、1月3日に事件が起きたのです。

その年のスキー場は、雪も少なく、竹のようなブッシュが出ていました。

気持ちよく滑っているとそのブッシュに引っかかり転んでしまったのです。

その時目の前に“ピカッと光りが”その瞬間「やってしまった!」

と御先真っ暗に・・・

立ち上がろうとすると、左足首は、締め付けられ、痛くて立つことができません。

さらに、気持ち悪くなり、吐き気と寒気が・・・

診断は、複雑骨折。

この骨折で再び自信をなくすことに・・つづく

名医とは   生き方まで・・・

父は、日用雑貨の卸を営んで忙しい毎日を送っていたにもかかわらず、

私のぜんそくを治すためとはいえ休みの日曜日にスキーに連れて行くのは、

大変なことだったと思います・・・親とは有り難いものです。

はじめは嫌で嫌でたまらなかったスキーですが、現在までいや、70、80歳まで

カラダの動く限りスキーを続けたいと思っているから不思議なものです。

そして、ぜんそくが出なくなったのは、個人病院のおじいさん先生のお蔭です。

当時、診察台に仰向けに膝を立ててお腹を触って私のぜんそくの発作がなぜ治まったか?

ただのマッサージと思っていましたが、それが約30年後にわかるのです。

自然治癒力がどうすれば高まるのかを勉強することになり、整体も勉強しました。

おじいさん先生がお腹を触っていたのは、私の下垂した内臓を正常な位置に戻すことで

ぜんそくの発作を治していたのです。

注射や吸入を使わず、治すという本当の名医だったと感謝しています。

最近は、子供の風邪でも坐薬や抗生物質の投与は当たり前。

その子供の自然治癒力をどうしたら高められるか?

なんて考えている医師は少ないのでは?

ましては、性格や生き方まで変えてくれるアドバイスをしてくれる医師が

名医と呼んでふさわしいと思うのは私だけでしょうか?

私もおじいさん先生のように漢方や整体を通じて悩んでいる人に、その人の考え方、

生き方までも変えられるようになれるように精進していきたいと思っています。

ぜんそく完治?  風邪を引いても・・・

そんなことを続けているうちに滑れるようになり、

滑れるようになってくると今度は、

スキーに行くのが楽しくなるから変われば変わるものです。

当時スキーをしている子供少なかったのでだんだんスキーが出来るということが

自信になり、おじいさん先生の言うとおり少しは積極的になっていったのです。

一番の自信になったのは小学4年生のときでした。

冬休みにひとつ上の友達と2人きりで電車で行くことに。・・・初めての親離れ?

友達の親戚が中里スキー場で民宿を営んでいたので

そこに冬休みになると宿題をもって行くようになり、

今振り返るとさらに自信がついたのでしょう。

このころもまだ風邪ひき体質は、変りませんでしたが、

ぜんそくの発作があきらかに減ってきたのです。

そして小学6年生になるとぜんそくの発作は、起こらなくなったのです。

おじいさん先生の「この子は、自信のない子なのでスキーでもやらせなさい!」

「スキーで自信がついたころにはぜんそくは、治っているはずです」という

アドバイスは、正解ということに。

ぜんそく治療   スキーが嫌い? ・・・8/3

幼いころの私は、内弁慶で泣き虫でした。

親戚が集まるところにいくと母親の後ろに隠れておとなしい子供でした。

そんな内弁慶で泣き虫な私を父は、もどかしく何とかしたいと思ったことでしょう!

個人病院のおじいさん先生のアドバイス通り

ぜんそく治療のためスキーをすることに。

当時は、スキーをする人はいなかったので、私の父も初心者。

いきなりリフトに乗り、親子共々雪だるまになって降りてきたのです。

当時のスキーウエアは、上は、ヤッケと呼ばれるもので、薄っぺらい生地で

ズボンはタイツに少し厚みを持たせたような粗末なモノでした。

スキー靴は、革製の紐、ストックは竹製、スキーのビンディングは、

ワンタッチではなく、スキー靴のかかとにワイヤーをひっかけ、

前にペタンと倒して固定しました。

父も初心者で自分が滑るので精一杯で私に滑り方を教えるどころではなく、

滑り方もわからず、転んでばかりだったので、ウエアは、びっちょり。

とても寒くて鼻水と涙は、凍ってしまい私はスキーが大嫌いで日曜日になると

スキーに行きたくないので腹が痛い!と仮病までつかいました。

しかし、父は厳しくそんなことで許してはくれません。

引きづり起こされ、毎週連れていかれたので、

日曜日が来るのが恐ろしかったのです。

ぜんそく発作がある日でさえも「スキー場に行けば治る!」と。

私は、そんなことはないだろう?!なんて親だ!と鬼か!とも思ったものです。

しかし、雪国に行くとぜんそくが楽になったのは不思議でした!・・・つづく

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小児ぜんそく   幼いころは・・・

私は、1961年(昭和36年)9月25日、

両親の生まれ故郷である栃木市で生まれたそうです。

血液型は、AB。

私は6歳ごろから小児ぜんそくでした。

風邪を引くとぜんそくで「ゼーゼー」と息苦しくなりました。

そのたびに個人病院のおじいさん先生にお世話になりました。

私は、そのおじいさん先生が大好きでした。

なぜなら、診察台に仰向けに膝を立てて寝せられ、

なにやらお腹をいじっていもらうと咳が止まり、呼吸がすぐに楽になったからです。

他の病院では、注射をするので行きたくなかったようです。

もうひとつ、私の父にアドバイスをしていたのを覚えています。

そのアドバイスとは?

「この子は、自信のない子なのでスキーでもやらせなさい!」

「スキーで自信がついたころにはぜんそくは、治っているはずです」と。

それから父親とともにスキーを始めることに・・・つづく。

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