扁桃腺  3か月に一回・・・

夜遅くの食事とトラックを運転しながらの昼食が毎日続くのです。

そして、今度は扁桃腺を腫らすようになるのです。

そのころもお医者様が病気を治すと思っていた(そう育てられた)私は、

おじちゃん先生の息子さんの医院にかかることに。

症状は、手が震えるほどの40度近い高熱とのどの痛み。

点滴を打ち、抗生物質を飲んで仕事をしていたわけです。

お医者様からは、カラダを休めなくてはダメと言われていましたが、

人手も足りない状況で私が休むわけにはいかなかったので、

高熱が出て寒気と震えが出てくるとボルタレンという座薬を入れながら

仕事を続けていたのです。

はじめは、3か月に一回のペースで扁桃腺が腫れたのですが、

それが2か月に1回、1か月に1回、しまいには半月に1回になってしまい、

私のお尻は、座薬の入れ過ぎでグジュグジュ状態。

何かおかしい!と気づきお医者様に聞いてみることに・・・

するとお医者様からとんでもない?言葉が返ってくるのです。・・・つづく

液体朝食  朝から肉体労働・・・

実家を継ぐことになり、すぐに結婚。(25歳)

日用雑貨の卸は、10トン車でエリエールティシュやペーパーが入荷し

毎日が積み下ろしで朝から肉体労働。

このころから完全に朝食抜きの生活になります。

私の父は「朝食を食べない奴は、ろくな奴にならない!」が口癖でした。

しかし、たらふく朝からごはんを食べると血液が胃に集まり、頭は冴えないし、

筋肉に力が入らないのがわかったからです。

そして、荷物を運びおわってからの疲れも違うと感じたからです。

当時は、リポビタンDを信じていたので「ファイト!一発!」と気合をいれて

朝食代わりにしていたのです。・・・それがよかったかは疑問。

今思うと、確かに朝食を抜いていたからろくな人間にならなかったのかも?

・・・父のいうことは正しかった?

このころから朝は、液体でとるという考え(成長期が終った人は)になったわけです。

しかし、カラダを壊したのは、朝食を抜いたことではなく、

仕事が終わって夕食を食べるのが10時すぎという毎日が続くわけです。

そして、扁桃腺が腫れることに・・・つづく

ホームセンターの卸  毎日トラックで・・・

大学を無事卒業して、ホームセンターの卸の会社に就職。

そこで営業マンとして3年間、働くことに。

お得意様は、ホームセンターや日曜大工センターというお店に行き、

注文とりと納品も自分でしなくてはなりませんでした。

2トンのトラックに乗り、毎日首都高速の渋滞。

そんななか、渋滞中に横に並んだトラックの運ちゃんから

「渋滞で暇なんだからタバコでも吸え!」と言われて

調子に乗って吸い始めたのがきっかけでした。

いまから考えればせっかく大学時代に吸わなかったものを、

社会人になってからタバコを覚えるなんて・・・後悔してます。

しかし、タバコを吸うようになってからは、

さらにアレルギー性鼻炎が改善していくのです。

本当にカラダに良いこと、悪いことの常識を疑う出来事です。

このことがきっかけで、常識といわれているものを

そのまま鵜呑みにすることがなくなり、自分で確かめて結論を出すという

思考になっていったようです。

なんで漢方なのにホームセンターの卸に勤めたか?をご説明。

実家が日用品の卸をしていて、長男だった私は、次ぐのが当たり前として

他の仕事をすることは全く考えてもいませんでした。

そして3年目のときに、父が戻ってこい!と。

私としては、仕事も慣れて面白くなってきてところだったのでもう少し、

勤めていたかったというのが本音で戻りたくはありませんでしたが、

ついには、母親に泣き疲れてしまい戻ることになってしまったのです。・・・残念!

アレルギー性鼻炎が改善  一人暮らしを・・・

なんとか運よく大学に合格して、念願の東京一人暮らし。

はじめは、自炊をしていましたが3か月ぐらいで外食生活。

親の監視から離れ生活も食生活もいい加減になっていきます。

しかし、ホコリとカビのアレルギー性鼻炎は、だんだん起きなくなっていくのです。

やはり、受験というストレスで症状がひどくなっていたのかもしれません。

そのころから、規則正しい生活!?とは・・・

と疑問を持つようになっていくのです。

大学時代から比べると、よほど中学、高校での食生活や生活習慣のほうが

よかったにも関わらず、カラダは、どんどん丈夫になっていくのです。

私は、タバコは、吸いませんでしたが副流煙は、かなり吸っていたと思います。

お酒も先輩に吐くほど飲まされたりしていたにかかわらず、

元気になっていくのが不思議でした。

受験というストレスから解放され、自由気ままに生活することのほうが

心身ともに健康にはよいようです。

スキーの合宿の費用を稼ぐためのアルバイトもいろいろしました。

お金を稼ぐ大切さを学ぶことができことと、

社会のいろいろな人との出会いが私の精神を強くしてくれたようです。

 

大学受験  このころから・・・

2度目の骨折で入院生活を再び経験はしましたが、

高校生活は、友達にも恵まれ勉強以外は、とても楽しく過ごせました。

大学受験は、国語、数学、英語で受験することに。

志望校を担任の先生にいうと、今の成績ではとうてい受かることはできない

レベルでしたが、ある面白いことが1度だけ起きたのです。

友達と東京の予備校の模擬テストを受けた時のことです。

大の苦手の国語がどういうわけかできてしまい、全国で名前が出てしまったのです。

本人ももちろんですが、友達も先生もビックリ!

そんなことがあったので、担任の先生は

「上野は、東京方面に運があるから受けてみろ!」

というからなんと器の大きな先生かと思ったものです。

合格率を気にする先生の中、そんなのはお構いなしというところが

とても好きでした。

しかし、なんと志望校にまぐれで受かってしまったのです。

高校受験で「これからは本番に強くなる!」と

決めたのがよかったのかもしれません。

この受験を機に本番に強くなっていくのです。

そして、大学2年からスキー部に入り、再びスキーを始めるのです。

2度目の挫折  今度は野球で・・・

なんとか高校に合格して、楽しい高校生活が始まってまもなく、

こんどは、野球をしていて3塁ベースを回るとき、ボキッと嫌な音が?

ホームまで走ってしまったのですが、また吐き気が・・・

あれっ、もしかしてまた骨折?・・・

スキーで骨折したその下の部分が折れてしまったのです。

つなぎ目の上下がもろくなるようです。

また、お先真っ暗。入院生活が始まるわけです。

このときの骨折の治療法は、かかとにドリルで穴をあけて足を引っ張ると

いう治療法だったのです。

部分麻酔でドリルが足に入っていくのがわかるのです。

もちろん麻酔をしていたので痛みは感じませんでしたが、

ドリルがかかとに入る瞬間と出る瞬間の感覚は、今でも覚えています。

二度目の入院生活で友達の有難さを学びます。

入院中クラスメイトが勉強を教えに来てくれたことです。

いろいろな人に支えられて生きていることがこのとき感じるのです。

退院してもしばらくは、リハビリ生活でしたが、

一度目と違い複雑骨折ではなかったので、日常の生活に戻るのは、

さほど苦痛もなく、戻ることができました。

しかし、このときの入院で勉強が遅れをとってしまい、

成績も悪くなっていくのです。とくに数学がまったくわからなくなってしまうのです。

おかしなものでこのときは、成績は落ちてしまいましたが、

「普段できなくても本番でできればよい!」という楽観的に考えが変わっていました。

 

 

 

 

 

88  数字に助けられる?・・・

本番で誰も間違わない問題でケアレスミスをしてしまい、

食べることができなった私ですが、一番慰めてくれたのがおばあちゃん。

なんて私に声をかけたか?

「大丈夫!88は末広がりといって運がいい数字」

「だから、きっと合格しているよ!」というのです。

私の受験番号が88だったのです。

小学6年の時に骨折して入院に付き添ってくれたり、

「芳弘という名前は、お寺さんにつけてもらったかよい名前」

などと私を何度も励ましてくれたのです。

この時もどれほど勇気づけられたかわかりません。

なんで88という受験番号で番号が良いから受かる?と訳の分からない理屈が

当時の私には妙に納得がいき、今思うと不思議でした。

そして、合格発表の日、友達と見に行くと、なんと!88があるのです。

そのとき、番号がよかったから受かった!と本気で思ったからこれまた不思議。

あとで成績を聞いてみると定員315人中私は310番目。

あと1問間違っていたら中学浪人となり、私の人生は、大きく変わったことでしょう!

このとき、決意をするのです。「本番に強くなろう!」と・・・つづく

食不能  まったく食べられず・・・

順調に勉強もできるようになり、志望校に合格まちがいなし!

とまでいわれるようになりました。

自分も自信があったので志望校一本で他は受験しないことに。

そのときは、本番に弱い!自分を忘れていたのかもしれません。

ところが受験が終わり、群馬テレビで答え合わせをしていると。

理科の答え合わせのとき、顔から血の気が引いていくのです。

誰でもできる問題で、しかも続き問題5問の最初の問題を

どう勘違いしたのかわかりませんが、間違ってしまったのです。

そのとき、「終わった!絶対に受からない!」と。

それ以来、部屋にこもってしまい、何も食べることができなくなったのです。

今考えると、人は、とてつもないショックなことが起き、脳がダメージを受けると

カラダは、脳を守るために食べさせないようにして精神を守るようです。

先生に相談すると「おまえが受からなくて誰が受かる!」と慰めてもらうも

合格発表の日まで全くお腹がすかず食べることができなかったのです

・・・初めての断食?

ここでも、自分は、なんて本番に弱いのだろう!と落ち込むのです。

そしていよいよ合格発表の日が・・・つづく

 

アレルギー性鼻炎  勉強すると・・・

本格的に受験勉強をすると、今度は、鼻水がとまらなくなり、

毎日、ティシュボックス1箱使うようになったのです。

診断は、アレルギー性鼻炎。

それもどこにでもあるホコリとカビというから手に負えません。

今では、花粉症などのアレルギー症状は、認知がありますが

当時は、そんな症状は、珍しい方でした。

逆を言えば、私のカラダは流行の最先端だった?のかも。

そして、減感作療法と訳の分からない治療のため、週一回、チャリで

一年間耳鼻科に通ったのです。

しかし、結果は、まったく効き目なし。

このことも私の医者不信は、ますます大きくなりましたが、当時は、ほかにもなく、

というか、親の言う通り医者にかかるしかありませんでした。

特に勉強すると鼻水が止まらなくなるのです。

やはり、自分には勉強は、向いていないかも?

なんて都合のよい言い訳をよくしたものです。

それにしてもカラダが弱く、ぜんそく、骨折、今度は鼻水?

次から次へとよくまあ苦しめられるものだと自分のカラダながら

なぜ、自分だけがこんなに弱いのだろう?と悩んだものです。

4歳下の妹とは、風邪も引かず元気そのものだっただけに余計に

自分だけが!という思いがあったのかもしれません。

アレルギー性鼻炎は、結局市販の鼻炎薬を常用することに。

結局、大学受験まで悩ませることになるのです。

出会いと出来事  勉強のできる・・・

中学に入り、勉強もみんなについていけなくなり、得意の運動もだめになり、

登校拒否にこそなりませんでしたが、学校に行くのがつらい毎日でした。

そんなとき、学年で一番頭のいい子とクラスが一緒になり、

友達になったことが、刺激となり勉強をなぜか始めるのです。

その子の勧めでバスケット部に入ることに。

2年の途中からの入部だったのと、運動神経が悪くなったのということもあって

一生懸命努力するも、とうとうスタメンにはなれませんでした。

しかしながら、運動がまったくできなかったことから考えると、

仲間と楽しいバスケットができるだけで満足でした。

一方勉強のほうは、徐々にみんなに追いつくことができ、

その子と同じ高校を目指すことに。

このように出会いというものは、人生において大切なもの。

その子との出会いがなければ、今の自分はないともいえます。

出会いや出来事がその後の人生においてかかわりがあり、

それをどのようにとらえていくか?が大切でもあり、生きる楽しみでもあるようです。

なんて当時は、考えたこともなく、恨み、つらみの毎日でしたけど。

今振り返ってみると、漢方や整体の道に進んだのも出会いと出来事が

おおいに関係して、のちほどどれだけ役に立っているか?

それがわかるようになることが大人になることかもしれません。